SNS依存になる心理とは

インターネットというバーチャルの世界に閉じこもる人が増えた、と言われてもう随分経ったかと思います。真っ暗な部屋でパソコンの光だけが煌々と照っているその前で、日がな一日座っている……そんなイメージを持っている方も多いかと思われますが、今はもっと見た目明るいインターネット中毒者が増えてしまっています。

今回はそんな依存症とも呼べるほどにネットの世界にハマっている人の心理を、「池の鯉」をキーワードにお話しようと思います。

そのつぶやきは鯉のエサ

大きな池のある見事な日本庭園を想像してみてください。

ひきこもりのインターネット依存者は、その池のほとりでボーっと景色を眺めているようなものです。刻々と移り変わる景色をただ見ているだけ。人と関わることを完全に諦めています。

 

けれど大抵の人はやはり、誰かと少しでも関わりを持ちたいと思うもの。
そのため、鯉のエサを用意して、それを池に放ってみます。でもそれは池の端のほうで、それも水の中を覗き込むことなく放っている。鯉がいるのかどうか分からず、ただ放る。

そのエサはただただ水面でプカプカと浮かぶのみ……。

 

その浮かんだエサを見ながら思います。
「あぁやっぱり」

「私が投げたものは誰も拾ってはくれない」
「どうせ俺のことなんて……」
そんな気持ちを強くしていきます。

考えてみれば当たり前のことなのです。そこに鯉がいるのかどうかを確かめずにただ手を動かしてエサを放っただけなのですから。

先に池の中を覗き込んで鯉がいるかどうかを確かめられなかったのは、怖いから。そこに何があるかはなんにも知らないけれど、ただただ怖いのです。暗い渦があって引き込まれそうになると思っているのかもしれません。何かと目が合って身体が凍り付くのを想像してしまうのかもしれません。

 

それでも「もしかしたら」と思ってエサを放ります。
「私の言葉を誰かが聞いてくれるかもしれない」
「心優しい人はきっといるはずだ」

けれどそんな甘い期待が裏切られるとこう思います。
「せっかく放ってやったのに」
「どいつもこいつも、俺のものは受け取らない」

プカプカと浮かぶエサを見ながら、昏い怒りに囚われていきます。誰も彼もが敵のように感じていきます。

そんな思いを抱えながらも、それでも放ることをやめられない。
期待を捨てられないから。誰かが応えてくれるかもしれないから。そんなことが起こるのがインターネットの世界だから。
そうやって、そこから抜け出せずに留まるのです。立派な依存です。

 

インターネットという池に、誰に伝えたい言葉なのかを考えず、ただ言葉を投げかければ誰かが反応してくれるかもしれない。
そんな淡い期待は見事に打ち破られて、自己否定を強くするとともに、「世間」と一括りしたものに恨みを抱くようになっていきます。

そもそものスタートは自分の恐怖心から、そこに相手がいるのかいないのか確かめられなかったところにあるのに。

 

もっともっと反応が欲しくなる

それを幸運と呼ぶかは分かりませんが、無造作に放り込んだエサが偶然にもそこを通りかかった一匹二匹の鯉に啄まれることもあります。放り込んだエサがひとつふたつと消えていく。その反応が嬉しくなると、もっと反応が欲しくなります。

そうなるとどうするかというと、そこでやっと、もっと反応がもらえる場所を目指すようになります。

鯉が集まる最たる場所。そう、庭園の中ほどにある橋の上。

 

そこからエサを放ると、あっという間に鯉が集まってきて、バチャバチャ、バチャバチャと仲間の上に乗り上がるほどにエサに食いついてきます。その反応が楽しくて、もっとたくさんのエサを用意するようになります。
そして他とは違うもっと目を惹くものを。奇をてらったものを。めちゃくちゃ派手に。
とにかく新しく、珍しいものを誰よりも先んじて。

そこに群がる鯉を橋の上に立って見下ろしながら感じるのは、歪んだ快感
自分が投げ入れたものに我先にと群がる様を唇を歪めながら見つめるのです。

 

SNSに投稿したものに「いいね!」が付くと、自分が肯定されたような気持ちになる。受け入れてもらえていると感じる。かつてない喜びに次第に依存していきます。
その喜びをもっと多く感じたくて、更に人目を惹くものを求めて情報を集める。インスタ映えするもののためなら待ち行列なんてなんのその。
ダイレクトに「私」を承認してもらいたいから、「私」の写真を連続アップ。自撮りのテクニックは否が応でも上がっていく。

「いいね!」のために躍起になる。
なぜなら「いいね!」の数が私の評価だから。

だからこそ、より過激なものを用意して”キラキラを盛った自分”を作り上げていく。

 

けれどそれをすればするほどに……

“キラキラを盛った自分”と”素の自分”の余りの差に恐れおののくようになります。そして”素の自分”を更に嫌いになっていきます。
「なんで私はこんななんだろう……」
「素の自分なんてもう絶対に外になんか出せない」
そうやって自分を嫌えば嫌うほど、外に表現するものは華やかな自分。

内心は苦しくて堪らないのに、誰も見向きもしなくなってしまうのが怖くて、必死にエサを撒き続けます。

 

けれど池の鯉もお腹がいっぱいになるときがやってきます。余りにもアクの強いエサに辟易するかもしれません。とうとう投げ入れたエサに見向きもしなくなります。

そのとき胸に去来するのは、むなしさ

群がっていた鯉は「自分」にではなく、「自分の撒いたエサ」に引き寄せられただけ。
「自分」を認めてくれていたわけではなかった……。

 

エサに群がる鯉になっていませんか

池の鯉にエサを放るように話題を提供する側がインターネット依存なら、その話題をいまかいまかと橋の下で待っている鯉も同じくインターネット依存になっています。

橋の下にいれば労なくしてエサという刺激にあやかれる。そこで待っていさえすれば退屈を満たしてもらえる。そんな風に待ち続けるのです。

広い池を探検してみれば何やら面白そうなものに出会うこともあるし、もっと居心地の良い場所もあるでしょう。もしかしたらその池は川につながっているかもしれません。もっと広くて喜びに溢れた場所に出れるかもしれません。

そうやって自分の世界を広げる行動を取っていれば見えるはずのものを、楽ちんにエサが入るならと橋の下で待ち続けて……見失っていく。

 

苦労をせずに面白おかしく過ごせる術がある。考えたくもないことを忘れられる。
そうして肝心なことを避け続けていくうちに、自分の好きと嫌いが分からなくなっていく。
なぜなら与えられるエサで満足できる自分になるため、それを美味しいと思わないといけないから。そのために、自分の好みに蓋をするしかない。そうして更に更に自分を見失っていく。

投げ入れられたエサを口にするために仲間の上に乗り上げてまで我先にと得るものは、よく考えれば大して良いものではないのかもしれないのに。

池の中から橋の上の人間を見上げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる顔を見ながら感じるのは、敗北者の自分

「ああなれたらいいな」
「でも、なれるはずもないな」

だからせめて、誰よりも早く反応して、勝者の目を引く自分でいたい。出来れば勝者に目を掛けてもらいたい。
そうやって敗者の位置に甘んじます。

けれど真実は、負けてなんかいません。
……そもそも勝負をしていないのですから。自分を賭けて人生を生きていないのですから。

 

広い池を探検できないのは、そこに何があるか分からない怖れかもしれません。
自分で動き出した結果で引き起こされた不都合に、自分で責任を取るのが怖いのかもしれません。

理由はさまざまあれど、狭い世界で窮屈な思いをしながら、それでも楽に生きる最低限はあるからと我慢の日々を過ごしていくことは変わりません。

インターネットの世界は広いようで、実は人によっては実際の世界よりも更に小さなところなのです。

 

コミュニケーションはアイコンタクトから始まる

人と人がつながる、その本当の姿とはどういうものでしょうか。

コミュニケーションはキャッチボールのようなものだと言われます。

キャッチボールで肝心なのは、アイコンタクト。
どんなものをどんな形でどのように投げるか。そういったことよりもまず大切なのは、「あなたが相手です」と伝えることです。

あなたに対して伝えたい
まずはそれを明らかにすること。

伝えたい内容をどういう形にできるのか、どんな形だったらうまく伝わるのか、それらをより良くするためのテクニックはあります。けれどそのテクニックをどれだけ磨いても、伝えたい人に伝えるためには「あなたが伝えたい相手なのだ」ということを示さないとなりません。

そのために視線を交わすのです。

橋の上に立って無造作に放り投げるのではなく、狙いをつけた鯉に視線の高さを合わせるためしゃがみこむように。
そして更に、インターネットという池に放るのではなく、リアルな世界で同じ地面の上に立って。

 

「あなたが相手」と示しても、ボールがうまく届かないこともあります。勢い余って投げつけるようになってしまうこともあるでしょう。
そこにはクリアしなくてはならない課題があるかもしれません。

でもそれよりも何よりも、まっすぐに相手の瞳を見つめられるのかどうか。

 

あなたはインターネットの世界ではなくリアルな世界で、相手の瞳をまっすぐに見ることが出来ますか?

本当に相手の眼を見ていると自信を持って言えますか?

 

そこに不安を感じるのであれば、心理セラピーはお役に立てることがあるかもしれません。