発達障害が犯罪を引き起こす?

先日、図書館でたまたま手にした本。今回はこの本から考えたことを書きたいと思います。

草薙厚子著
ドキュメント・少年犯罪と発達障害
大人たちはなぜ、子どもの殺意に気づかなかったか?

実は、こちらの著者さんがこの本にも取り上げられている奈良で起こった少年犯罪に関連した著書で、裁判沙汰になっていたということは、この本を読み進めて初めて知りました。2007年のことなので記憶に残っていても良さそうなのですが全く覚えがありません。

そのため、そちらの著書、そして裁判事件については特に触れることなく進めていきたいと思います。

・少年犯罪を引き起こす要因とは何なのか?
・そして未然に防ぐために私たちに何が出来るのか?

早期発見、早期認知、早期療育

冒頭の本では下記の3つの事件についてのドキュメントが書かれています。

1:佐世保小六女児同級生殺害事件
小学校の中で11歳の女子児童が同級生の首を切り、殺害した。

2:静岡タリウム少女母親毒殺未遂事件
16歳の女子高生が酢酸タリウムという化学物質を母親に少しずつ飲ませ、結果、母親は植物状態に。

3:奈良エリート少年自宅放火殺人事件
奈良県の名門私立高校に通っていた16歳の男子高生が自宅に火をつけて、その火災により父親の再婚相手の継母と、その夫婦間の幼い弟妹が亡くなる。

そして、この事件の加害者たちは周囲に「普通の子」とみなされていながらも「広汎性発達障害(※)」であり、それが犯罪を引き起こした、との見方がこの本の中で示されています。

※補注

一般に、発達障害とは先天性の脳機能障害であり、幼少時に年齢相応の発達が見られないことからそのように呼ばれます。大きく分けると以下の3つに分類されます。

・自閉症スペクトラム障害 [ASD]
・注意欠如多動性障害 [ADHD]
・限局性学習障害 [SLD] (一般にはLD)

上記、広汎性発達障害とは自閉症スペクトラム障害とほぼ同一のものとなります。医師が発達障害と診断をする際に基準として使われているものが世界的に二つ存在し、それが混在してしまっている状態となります。以降、私が書く「発達障害」は広汎性発達障害にとどまらず、上記3つを含むものを指すこととします。

 

冒頭にご紹介した本では、「発達障害である」という認識がなされないままに、日常生活の中で多くの困難に直面した子どもたちが、その困難さ故に殺意を抱き、突如として事件を起こす、との見解が述べられています。

発達障害を原因として起こるさまざまな生きづらさ(周囲と上手く交われず素の自分を理解してもらえないと感じることで生じる孤立、強い劣等感、無力感、無価値感)が積み重なり、どうにもならなくなって事件を起こしてしまう、ということです。

だからこそ「発達障害である」ということを「早期発見」「早期認知」し、適切な「早期療育」を施すことが必要である、そのためにも「発達障害」がどのようなものであるか正しく理解されなくてはならない。

それがこの本の論旨であると私は解釈しました。

愛着の傷つきという視点

私個人の意見としてお伝えしますと、私は取り上げられている事件の最大の要因は発達障害よりかは愛着の問題なのではないかと感じています。私は愛着というものの重要性をリトリーブサイコセラピーの学びを通して何度も目の当たりにしています。

愛着とは「人と人との絆を結ぶ力」のこと。
乳幼児期に子どもの側から選択された特別な相手(多くは母親)との間に築かれる愛着は、家庭の外へと出たあと子ども自らが作り上げる人間関係の基盤となります。

愛着が培われるのを最も阻害する要因のひとつが虐待です。
冒頭に挙げた事件でも加害者となった子どもたちには虐待を受けていた様子が伺えます。


1の佐世保の少女は父親から殴られるなど身体的虐待を受けていた。母親は人前でも無表情で無口、感情がうかがえない、つまりは家庭においてあたたかいつながりがあったのかが疑わしい。そして姉のほうばかりが可愛がられる。

3の奈良の少年の父親は国公立ではなく私大出の医者だということにコンプレックスを抱き、周囲を見返すために息子に勉強を強要。夜毎監視し体罰も加える。

2の静岡の少女には明確な虐待の記述は本のなかに見受けられないものの、本人が書いたブログにはこんな記載が。
「僕は――彼女は幼少の頃から人と交わることが出来ずにいました。祖父母が迎えに来るまでの間、ずっと独りで砂場で遊んでいました」

迎えに来るのが祖父母ということは、両親とのつながりが薄かった可能性あり。「僕」とは少女の中にいる分身であり、そのような存在を生み出さざるを得なかった状況は何らか幼い頃から抱えた生きづらさがあったはず。


このように加害者となってしまった子どもたちは、両親と愛情を伴う関わりが持てず、愛着にキズを抱えていた可能性があるのです。愛着のキズが放置されたまま成長すると、周囲の人間と関係を築く際に困難が生じ、孤立してしまうことにもなるのです。根本にあるのは「自分なんて生まれてきてはいけなかった」と思うほどの無価値感。

そして愛着というシステムは心理的な仕組みのみならず生物的な仕組みと言われます。ヒトという動物にとって必要な仕組みであり、それが阻害されたときにヒトの発達が困難になるというのは分かりやすい話です。専門家も発達障害とみなされる症状が実は愛着の問題から引き起こされている可能性もあることを示唆しています。

発達障害について知ることの意義

ただこのように書くと、では発達障害とみられる症状を見せる子どもの親は、愛着を築き損なったダメな親なのかと短絡的に考えてしまう人も出てきてしまうでしょう。

そこでまた別の本をご紹介します。漫画です。

児童福祉司 一貫田逸子
作画 さかたのり子 原作 穂実あゆこ

新米の児童福祉司が児童虐待に向き合う話が何作かシリーズで描かれています。その中に「悪魔の子ども」という回があります。

主人公である児童福祉司の一貫田は虐待の通報があったある家庭について、それまでの経験から「親側の問題により虐待が起こっている」と見なしました。
ところが……

親側に全く問題がないとは言えませんが、子どもの側にも問題があったのです。
その子どもはディフィカルト・チャイルド(difficult child:育てにくい子ども)でした。

本の中で描かれていた子どもの様子はこうです。

・親が手から離すと火が付いたように泣き続ける
・ミルクを異常に欲しがり、飲んでは吐き、また飲んで、を繰り返す
・親はその世話をするために毎日よく眠れない
・イライラが募ることで夫婦仲も悪くなる
・幼稚園でも、問題のある子とみなされる
・じっとしていられない
・よくダンプカーみたいに人や物にぶつかる
・みんなと同じことがなかなかできない

保護した後の医師による診断はADHD(注意欠如多動性障害)。ただでさえ初めての子育てで不安な中で、他の子とは違う我が子の様子に「悪魔」としてしか子どもを見れなくなってしまった母親の気持ちは、子どものいない私でも分かるような気がします。そして夫には見放され、周囲からは虐待をしていると陰で言われてしまう。更に更に母親は追いつめられる……。

こういったケースでは冒頭の本の著者が主張されているように、発達障害というもの、その障害から引き起こされる行動特徴が広く認知されることは、子どもを愛したくても愛せない親を救うことになるのかもしれません。

冒頭の本では発達障害という切り口をもって少年事件を整理し、親、学校、そして司法において何が必要であり、そして社会がどうあるべきかを論じています。

私個人としては先に述べたように発達障害よりも愛着の問題がより根本にあるように思いますが、それでもセンセーショナルな事件を通してでも、発達障害について正しく知ろうとする人が増えることは意味のあることではないでしょうか。

少年犯罪を未然に防ぐために出来ること

けれどだからといって、発達障害と少年犯罪を短絡的に結び付けてはいけません。
俄かに受け入れがたい犯罪を、よく知りもしない発達障害のせいと片付けてしまいたくなるのは、安心したいから。原因の分からない脅威をそのままで抱えておくことは恐怖です。だから早く安心したい気持ちは分かります。ですが、そのようなお手軽な安心に飛びつかない人が増えてほしいと切に願います。

私たち大人が少年犯罪を防ぐために出来ることは何でしょうか。
発達障害を知ることでしょうか。愛着について学ぶことでしょうか。

子どもが何らかの異常信号を発したときに気づけるように、それらの知識を得ておくことは必要です。ですが、私たちひとりひとりが出来ること、と考えたときに、それよりももっと大切なことがあるように思います。

それは私たち大人が、自分自身の問題を片付けることです。

どうしてそのことが犯罪を防ぐことになるのでしょうか。

大人の問題を先に片付ける

「発達障害である」という認識がなされないままに、日常生活の中で多くの困難に直面した子どもたちが、その困難さ故に殺意を抱き、突如として事件を起こす、という、本の見解どおりの状況で考えみましょう。


子どもが何らか「普通」とは違う振る舞いをしている。

それに気付きながらも親はその事実を認められない。認められないから、その子どもの「特性」を周囲に伝えることができない。

周囲の人間は「普通」ではない様子を初めて目の当たりした瞬間、その子どもに対して違和感を持つ。違和感を持った相手に大事な子どもを積極的に近寄らせようとは思わない。「しつけがなってない」などと親に批判の目を向ける。それにより親は更に追いつめられる。子どもが憎悪の対象となる。

学校の先生もおかしな様子に気づきながらも後回しにしてしまうことで、手の付けられない状況にまで進んでしまうこともある。そうなればなるほど自身の保身に走ってしまう。

適切なサポートを得られず厄介者扱いされる子どもは「自分自身であること」に自信も誇りも持てず、その心の傷を内側に深く抱え込もうとしてしまいます。

少しでも早くその「特性」が周囲に理解されていたら、そんなことにはならなかったかもしれないのに……。


そうなってから、では遅いのです。そうなってからでは子どもに最終的な責任を背負わせることになります。


親がもっと早くに「普通」とは違う振る舞いの事実を認められていたら。

親がもっと早くに「普通ではない」ことは、その子の単なる「特性」でしかないと受け止められていたら。

母親がひとり抱え込んでいるなら、それを素直に夫と共有できていたら。

ママ友と表面的な世間話ではなく、悩みを打ち明けられていたら。

周囲の人間が、異質を避けることなく受け入れる姿勢を見せることが出来ていたら。

先生が自分の指導力の無さだと考え、その露呈を怖れたりせず、他の先生方にサポートをお願いできていたら。

そうしたら子どもは、自分の「特性」をそのまま受け入れてくれる環境の中で、それを社会に適応させる術を自ら探し出すことが出来たかもしれません。

あたたかい世界を作る

犯罪を犯した子どもの周囲の大人たちが、どうしてそれを出来なかったのか。

それは大人ひとりひとりが自分の内側に抱えた問題があるからです。

漠然とした「普通」という尺度に縋り、それを外れずに皆と同じであれば居場所をもらえると感じているのです。そこには自分がいま立っている場所への不安があります。不安がありながらも辛うじて保っている自分の居場所が奪われる恐怖や、隠し持っている自分の無価値感や劣等感を目の当たりにすることを避けています。そしてそのしわ寄せを子どもに押し付けているのです。

それで大人としての責任を果たしているといえるでしょうか。当然「否」ですよね。

ですから大人は自分自身の問題を片付けることが必要なのです。

自分を過剰に責めることなく、ありのままを受け入れ、そして人に頼り、それに応え、あたたかい世界を共に作り上げるために。

 

そんなあたたかい世界でなら、たとえ生得的な要因により定型の発達を辿れなかったとしても、子どもは「私はここにいていい」という自信をもって自分の人生を進んでいけるはずです。

心理セラピーはその一助。
どのような形であれ、あたたかい世界を目指して多くの大人が自分の問題と向き合っていくことを、私は願っています。