ボランティア 善意の陰に潜む深い闇

先日、里親・里子のマッチングを行なっている方からお話を聞く機会がありました。そこで伺ったのが、引き受ける子どもに条件をつける方がいる、という話。

「元気で明るい子どもがいい」
「好みの顔をしている子がいい」
「物心つく前の小さい子じゃないとダメ」

もちろんひとりの人間を引き受けるという責任がありますから、責任の重大さに対する不安から「出来るならこういう子のほうが……」と言いたくなってしまう気持ちなら理解できます。けれどもそういうことではなくて、少しきつい言い方を取るなら「引き受けてあげるんだから、こちらが選ぶのは当たり前」という考えの方もいるようです。

また、児童養護施設でのボランティアでも、初めはとても優しい協力的な人だったのに、慣れてくるに従い、まだ2、3歳の子にあれしろこれしろ、施設の運営の仕方には不満をぶつけるなど、やたらと指示をしてくる、子どもよりもボランティアすることで得る自分の満足度を優先しているような人もいる、とのこと。

里親になることを「ボランティア」という言葉で括るのは乱暴ですが、善意からなされる行いとしてひとまとめにするならば、善意であるはずの行い(ボランティア)に色々と自分に都合の良い条件を期待する人というのは一定数いるようです。

今回はそんな人が抱えている心の闇について綴っていきたいと思います。

イイトコ取りして褒められたい

冒頭の里親子のマッチングをされている方が使われた言葉です。
「自己犠牲なく良いことをしたいという人」

そんな「自己犠牲はイヤだけど、良いことはしたい」という人はどんな人なのでしょうか?

考えられるタイプは2つ。
ひとつは自己愛が強すぎる人です。行き過ぎると自己愛性パーソナリティ障害と目される方ですね。

自己愛というのは「自分を大切に思う気持ち」なので、すべての人が持っていていいものなのですが、それがあまりに大きいと問題が生じてきます。

小さな子どもには「ぼくはなんでもできるんだ!」とか「あたしはキラキラのお姫様なの!」とか、自分が世界の中心にいて万能感を持った存在であることを信じて疑わない時期があります。それはそれで大事な時期なのですね。
けれど当然ですが広い世界で捉えればいつでもナンバー1であるはずはなく、その事実をきちんと見て、過大でも過少でもない自分を知る必要があるのです。

けれど自己愛が強すぎる大人というのは、大人になってもなお自分が世界の中心にいますので、人からの注目を浴びたいし、人から羨望の眼差しで賞賛されたいのです。

そのために分かりやすく「可哀想な人に手を差し伸べる自分」というものを演出するのですね。それが世の中に称されるほどに責任あることならなおさら気合が入ってしまいます。

けれど「可哀想な人」という視点はすなわち上から目線。
「施しを与えてあげている」というポジションに立っているのです。
それが善意と言えるでしょうか。

ですが、本人としてはそんな素晴らしい行いをする自分は「誰からも大事にされて当然の人間」というイメージですから、意に沿わないことで苦労をするなどあり得ません。自分にとって都合の良い条件というのは提示して当たり前で、それに適する準備をするのが周りの者の務めと、無意識では思ってしまっているのですね。

意に沿わないことが発生してしまうと半狂乱になって騒ぎ立てますので非常に厄介です。

いい人でいたい でも我慢の限界はやってくる

「自己犠牲はイヤだけど、良いことはしたい」というもうひとつのタイプは、自己愛の人ほど子どもっぽくはなく、むしろ大人としてちゃんとしていると見られたい人です。一言でいえば「いい人」でいたい人。

大っぴらに賞賛されたい、というよりは、一目置かれたいという感じです。そのために最初は自己犠牲だって払います。そのほうが「あの人は私とは違うわね」と思わせるのに効果的です。

そうやって「いい人」は徐々に自分の存在感を強くしていくのですが、そのうちに今度は「そんな一目置かれる私の考えることは正しい」という信念のもとに自分の影響力を発揮したくなってくるのです。でもボランティアにはボランティアとしての領分があるもの。もちろん自由闊達な意見交換は必要なのでしょうが、ボランティアでは見えていない部分もあるわけです。けれど「自分」を通したい。その「自分」を曲げたくないのです。(このタイプも突き詰めれば”正しい自分が大好きな自己愛の人”とも言えますね)

なぜなら「いい人」というのは日頃、我慢をしまくっている人だから。我慢して我慢して我慢して……そうしていい人仮面を被り、人から認められるポジションを勝ち取るのです。これ以上の犠牲は嫌。そんな苦労までしている自分の意見が優先されないなど「正しくないこと」。正しくないことを強要されれば不満も溜まります。それがいつか爆発し、捨て台詞を残して立ち去り、後味の悪さを残すのです。

その「正しさ」はひとりよがりなんですけどね……。

自己犠牲したい そのためのボランティア

さて、「自己犠牲なく良いことをしたい」という人の話をしましたが、その一方で「自己犠牲したくてたまらない。だから報酬のないボランティアをしたい」という人も世の中にはいます。

そんな人たちはどんな心を抱えているのでしょうか。

自己犠牲したい理由は罪悪感罪を持っている自分を罰するために自身の犠牲を払うのです。
ではその罪とは何なのか?

それは生きていてごめんなさい、です。
「私なんか生きていてはいけない」という強烈な自己否定がそこにあるのです。

「こんな私ですが犠牲を払いますので
 どうか生きていることを許してください」

これは幼いころに親から愛されなかった子どもが持つ感覚。

許しを請うために、とことん自分を粗末にします。だからこそ大変な場所のボランティアであればあるほど、その人にとっては都合が良く有難いのです。

けれどそうやって身を削っていく様子をあなたはどう思いますか? 想像するだけでしんどいですよね。下手をすると悪だくみの出来る人にはその労働力を搾取されてしまいます。
どんなに犠牲を払っても、本人はそこから真の喜びを得られず幸せにはなれません。

そしてまた、そんな罪悪感から施されるものを受け取る側もまた、知らず知らず罪悪感を抱くようになります。「こんな私でごめんなさい」オーラをずっと浴び続けることになるからです。

人間は近しい人の影響を受けるので、そんな生き方も真似してしまうのですね。
「あなたがそんなに辛そうなのに無理しているのは私のせい。私が悪いんです。ごめんなさい」

善意がそこにあっても、それを出す側も受け取る側も幸せになれません。

ボランティアは貢献のステージで

それでは、する側も受ける側も幸せになれるボランティアとはどんなボランティアなのでしょうか。

それは貢献というキーワードが重要となります。そしてまた相互依存という言葉でも表せます。

人の成長過程には依存⇒自立⇒相互依存というステージがあります。相互依存は、自分が出来ることを提供し、出来ないことを提供してもらう関係ですね。相手にべったりと寄りかかるのではなく自分の力で立ち、けれど「すべて自分ひとりでやる!」と力を入れすぎてもなく、楽な状態です。相手から受け取っているものがあるとしっかり分かっているからこそ、自分に出来ることを何の下心なく喜びとともに出すのです。

2018年夏、行方知らずになってしまった幼い子をスーパーボランティアのおじさんが現場に着いてからのわずかな時間で発見した、という出来事がありました。この方のボランティアは「貢献」だと私は思います。ボランティア先に負担を掛けることがないようにと万全の準備をして出向き、自らのポリシーに沿って行動、結果を出したとしても決して自慢はしない。その人生の中でたくさんの苦労をされたそうですが、その中で人から受けた恩をきちんと受け取り、だからこそ今それを世の中に返そうとしていらっしゃる。

そのボランティア生活はどう見ても自己犠牲。けれどきちんとステージを上げた人にとっては自己犠牲にはなっていないのです。

この線引きは非常に難しいと私は思います。自己犠牲なのかそうでないのか。貢献といえるのかそうでないのか。見返りを求めているのかいないのか。

結局は本人にしか分からない。
けれど自分が本当の幸せを掴めているのかどうか、本人なら分かるのです。

優しさを交換する世界へ

ボランティアをする方の心理について書き連ねてきましたが、誤解していただきたくないことがあります。

ボランティアが必要とされる場面はいろいろあります。そこで求められるレベルはさまざまです。だから「自分は貢献のステージなんてとんでもない」とばかりに、どんなに気になってもボランティアには手を上げない、というのは非常にもったいない。

自分が本当に善意であると感じられる範囲で取り組めばいいと思うのです。無理がなければいいのです。その想いが相手を幸せにする場面はいくらでもあります。

ただ、自分を客観的に見る目を忘れないでください。

依存のステージのままでいる人は、人の下に入ることで自分の居場所を確保しています。人の下に入るとは我慢し続けているということです。だから不満が溜まります。ときには理不尽なほどの怒りでもって爆発します。そうすることで相手を失えば、また下に入れる誰かを探し求めます。いつでも誰かが基準です。

そしてまた人の下に入る人は、逆に相手を見くびり、上に立つこともしています。人を見下げながら自分の虚栄心を満たします。ときには攻撃します。そんな「裸の王様」は人に見破られ、そばには誰もいなくなります。

人に迷惑を掛けないようにと依存を充分にすることなく自立のステージに進んでしまった人は、自分が辛い時に寄って立つ場所がありません。歯を食いしばって我慢をし続けて、限界を超えたら抱え込んだすべてを道連れにして倒れます。誰も幸せになりません。

本当はすべての人は幸せになりたくて生きているのです。
幸せになれない問題が生じたときには助け合うことで共に生きていきたいのです。
頼られるだけでなく、頼るだけでなく。

せっかくの優しい気持ちも、その裏に潜む闇が大きければ、関わる全てをその闇のなかに飲み込みます。だからこそ、優しい気持ちがあるときこそ、自分の心の闇から目を逸らさないでください。

その優しさを100%、自分自身と相手の幸せのために活かせるように。
それが出来る力は本来誰もが持っています。幸せはあなたの力で生み出せるのです。