アイデンティティ、持っていますか?

アイデンティティとは一体なんでしょうか。あなたは説明できますか?
その意味を調べてみると色んな定義の仕方があり、けれど何だかどれも曖昧で、雲をつかむような気分になってしまいます。

そこで私が考えたのは、アイデンティティとは「私は私」という感覚ではないかということ。

感覚だから、そもそも言葉として表現することが難しい。簡単に一言で分かりやすく伝えづらい。例えば、あなたが地面に立っているときに「立っている」という感覚を表現して、と言われても難しくはないですか? 「地面に接する足を感じている」という外部から来る感覚だったり、アルプスの少女ハイジのクララのように「立てて嬉しい!」という感情を感じることは出来ると思います。けれど「立っている」という感覚とは?

当たり前のようにしていることなのに、それを定義づけることは難しいですよね。きっとアイデンティティというものもまた、当たり前なのに当たり前だからこそ、言葉にしづらいのだと思います。

今回はこのアイデンティティについて考えていきたいと思います。

アイデンティティと役割・ペルソナ

一般的にはアイデンティティと言われると、「会社員としての自分」「父親or母親としての自分」といったような立場・肩書を用いて表現することが多いです。でもこれはアイデンティティというよりは、単なる役割と言えるのではないかと思います。

仮面

また、心理用語としてはペルソナといって、仮面を被るようにその場その場にふさわしい人間を装う自分を人は持っていますので、それを持つことがアイデンティティの確立であるかのように思われている方もいるかもしれません。

役割を担ったり、ペルソナを持ったりすることは社会生活を送るうえで重要な機能となります。もし、まだ幼い子どもを持つ父親が、父親としての自分のまま会社に行き、後輩・部下を子どもに見立てて「これやっておいてくだちゃいね~」なんて言っていたら、社会的にアウトなわけですよね。

だから人は社会の中で、そういった役割やペルソナを持つことを自然に行うのです。たとえアイデンティティが不確かであっても。いえ、アイデンティティが不確かだからこそ、それを強固に求めるともいえるでしょう。

透明人間に肌色のボディスーツを着せ、服をかぶせて仮面をつければ、他人から認識してもらえ、その認識にふさわしい振る舞いをしていさえすれば、社会の中で生きていくことができます。

でも自分は透明人間だと知っています。さらに、透明人間はまだ物質としての形がありますが、アイデンティティは感覚です。それが雲のような霧のような、空気のようなものであれば、吹けば飛んでしまいます。

不確かなアイデンティティと命の危機

それくらいアイデンティティが希薄であっても、人はそこに自分の命というものがあることだけは分かります。「私は私」という感覚がなくても、自分がいま生きていることは事実なのですから。

命があって、それを取り巻くように「私」という確かな存在感がある。それが健全な状態。だから、アイデンティティが吹けば飛んでしまう状態というのは、命そのものが危険にさらされるときなんですね。

例えば

  • 希薄なアイデンティティに対する不安を払うために「会社員としての自分」という役割を維持してきた人が定年退職を迎えてしまったとき
  • 母親というペルソナで社会で居場所を得てきたのに、子どもが自分の元を巣立つとき
  • 成績優秀な人間として自分を作り上げてきたのに、受験に失敗してしまったとき

外側を覆っていた役割やペルソナが脆くも崩れ去ったとき、むき出しになった不確かなアイデンティティは命の危機を感じます。

そんな命の危機に面したとき、動物がどんな行動を取るかご存知ですか?

闘争か逃走(Fight or Flight)、戦うのか逃げるのか、そのどちらかだと言われます。

児童虐待の家庭で起こっていること

ここで、大きく報道もされてきた親からの虐待により児童死亡という最悪の結果を迎えた事件について考えてみましょう。2018年の船戸結愛ちゃん、2019年の栗原心愛ちゃんの事件ですね。

どちらも住居を転々とされたことで児童相談所の連携や周りの人間の見守りがうまくいかず、本来差し伸べられるべき手が子どもに届かなかった結果、子どもの命が失われてしまった悲しい事件です。

この住居を転々とすることが「逃げる」行動です。自分の家庭が外から脅かされることを嫌い、環境を変えようとするのです。自分の家庭というのが即ち、不確かなアイデンティティを覆う殻。殻が外されたらかなわないと逃げるのです。

けれど逃げ続けることは強いストレスとなります。そのストレスは怒りを引き起こすでしょう。そうなれば、自分と同一化してしまっている家族の面々を自分の思うとおりに動かそうとする行動はさらに激しくなり、干渉してくる外側の人間に対して強硬な態度に出る、恫喝するなど、噛みつくようになっていきます。「戦う」という行動ですね。

子どもに冷たい表情で接する父と母

虐待をする親はアイデンティティが不確かだと言えます。それが不確かだから、親という役割・ペルソナでどうにか自分を保とうとして、けれど子どもが素直な欲求に従い動くことを目の当たりにして自分の思い通りにいかないことを悟り、それでも自分を守ろうとして子どもの行動を制限する。

そうやって欲求や行動を制限されてきた虐待児が、その子もまたアイデンティティが不確かになり、それによって虐待の連鎖を引き起こす結果にもつながりかねないことは自明の理といえるでしょう。

アイデンティティが確立されるとき

そもそもアイデンティティとはいつ確立されるのでしょうか。

心理学者のエリク・H・エリクソンは青年期の発達課題としてアイデンティティを挙げています。いわゆる”思春期の反抗期”を経ることで築かれるもの、と言うことができるかと思います。

アイデンティティを「私は私」という感覚と捉えれば、それは本来この世に生を受けたときには持っているものですから、そのときに初めて作られるというよりは、強固になるときと考えられます。

反抗期は親の世界のなかから自分の世界へと飛び出すとき。幼児のイヤイヤ期も同じ。その反抗期を段階的に踏むことで、人は「私は私」という感覚を確立させることができるのです。

この反抗期というのは、見守る側からしても厄介なものでしょうが、本人としても心理的な苦痛を伴うものです。

今までの自分は嫌。でも今の安定を壊したくない。だけど新しい自分になりたい。そうはいっても新しい自分ってどんなもの? どうすればなれる? そんなの自分に得られるの?

……自分って何者?

これは先に述べたアイデンティティが脅かされているとき。つまりは命の危機です。

嵐

人間の健全な心の成長のために、反抗期は当然やってくる必要な段階です。けれどその当人にとって命の危機を感じさせるもの。
それを乗り越えるためには周りの人の助けが必要なのですね。けれどその手助けを与えてくれるべき最たる人物である親が手を差し伸べてくれなかったら?

アイデンティティを確立させることができません。

今からでもアイデンティティは築ける

アイデンティティを確立できないこの状態は、何も虐待家庭だけで起きることではありません。

あなたには反抗期はありましたか?

……私には、ありませんでした。私は心理的に「親を支える」という役割を担っていましたので、自分が命の危機に面している場合ではなかったのです。反抗期に突入することを自ら避けたのですね。もちろん無意識に。

本来通るべき道を通らなければ、そのときに問題は回避できたとしても、いずれもっと大きな問題となって表面化していきます。

私って、いったい、なんなの?

そんな問いが湧き上がってくる時が必ずやってくるのです。

けれど大抵の場合、反抗期を経なかった人にその問いがやってくるのは、ずいぶんと年を重ねてからになります。本当に困ったことに……。

十分に大人になったのに、それなのに「アイデンティティを改めて持て」と言われたところで、取り組めません。なぜなら、アイデンティティを見つめれば見つめるほど、何もない自分を見てしまうから。またも命の危機がやってきます。

そんなときに助けになってくれる人は、もはや親ではありません。そしてまた現実的に、本来の親が果たすべきものと同じくらいに助けとなってくれる人はそうそういません。何しろ、問題をずっと抑え込んできただけに、吹きだしたときの勢いは半端なものではないからです。

だからそんなとき、プロの手が必要となるのです。プロの手を借りて問題を自分で扱えるサイズにして、そうなって初めて周りにいてくれる人の手を借りることができたなら、スムーズに進んでいくことができます。

アイデンティティの確立は反抗期の年齢がはるか昔になった今からだって出来るのです。

「私は私」
その感覚を確かに持ったとき、自分という存在に涙が出るくらい愛しさを感じることでしょう。

それこそがきっと、幸せということなんだと、私は思います。

  

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