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父親の役割

父親とは「生命誕生にあたり精子を提供する」という意味合いにおいて生物として必須のものではあるものの、その後については母親ほど必要なものではありません。

人間の場合、そもそも母親の胎内で10ヶ月以上もの時間を過ごしますので、父親よりも母親のほうが生物的に必要不可欠な度合いは大きいというのは誰しもが納得する事実です。

生きづらさを抱える誰もが持っている根っこの原因の「愛着」は、やはり母親との間で生まれたものが多大なる影響を持ちます。

そうなると、父親とは何なのか、心の発達を考えたときに必要なのか必要ではないのか、という疑問が生じます。その疑問を解消すべく自分なりに確認していったことを書いていきたいと思います。

結論から申し上げると、
父性は子どもの発達に不可欠であり、特に社会的な面において必要となります。
そして、その発達が滞りなく進むためには母親に限らず、父親との愛着も必要になってくるのです。

父親が持つ二つの役目

父親が持つ役目は、その男性性が持つ「攻撃性」の二つの側面から生まれます。
父親はその攻撃性を用いて母子を外敵から守る役割を担います。そしてその一方で、その攻撃的な強さによって内なる世界に君臨する畏怖の対象ともなるのです。

頼もしさと、知恵と力を持つ存在

頼もしい庇護者としての父親は、常に家族を守る立場にありますが、特に母子密着といって母親と赤ちゃんがそれこそ隙間もないほどに密に接する時期は、母子共に安心してそうしていられるように、大きく外側から包み込むことが求められます。

この時期子どもは母親から与えられるあったかさによって自分の中に安心を育てていくとともに、外敵から守られることによって不安やストレスをケアする力を受け取っていくのです。

「守られる」ことによって、「守る」とはどのようなことなのかを学んでいきます。

また、子どもはやがて外の世界に興味を持ち始めますが、そのときに社会へと誘っていくのも庇護者としての父親の役目です。

母親が定住の安全基地なら、父親は出先の安全基地として、子どもに安心を与えながら外の世界との接点を作ります。特に身体を使う遊びを通して、行動する力を引き出すのです。

遊びは好奇心創造性を生み出します。子どもの目から見ると父親は、楽しみを生み出す知恵と、それを現実にする力とを兼ね備えた者に感じられることでしょう。

この時期、同時に父親にはもう一つの役割を発揮することも求められていきます。畏怖の対象として抑止力を行使する必要があるのです。

抑え、制限を加える存在

内なる世界に君臨する父親は欲望への抑止力を発揮します。外の世界に少しばかりの興味を持ち始めた頃の子どもにとって、いずれ支障が出てくる欲望の最たるものは「母に癒着していたい心」です。

一人の人間として生きていくためにはいつまでも母の懐の中にいるわけにはいきません。成長のために母子を引き離すこと(母子分離)は必要なプロセスです。そこで大きな役割を担うのが父親です。畏怖の対象として際限のない甘えを許さないのです。

そしてまたこの時期の子どもが持っている誇大な万能感自己顕示欲も打ち砕きます。

この万能感や自己顕示欲はこの時期の子どもにとっては至極正常な心の発達のひとつで誇大自己とも呼ばれる自己愛の一形態です。

自己愛はナルシストとイコールに思われてあまり良い感覚がしない方もいらっしゃるかもしれませんが、自己愛は「自分を大切にできる能力」のことを指し、むしろ持っていないといけないものです。ただし、現実的なサイズとして。

「僕はなんでもできる!」
「私を見て! 見て見て~!」
そんな気持ちが際限なく大きくなろうとするのを抑止するのが父親の持つ力です。

けっして敵わない大きな存在として子どもの前に立ちはだかることで、子どもは現実的な妥協点を見つけていくのです。

もちろんここで「畏怖の対象としての父親」と合わせて「頼もしい庇護者としての父親」の面があることが前提です。
もし暴君のごとく子どもをやりこめることだけに終始してしまうと、子どもの自己愛はかえって誇大自己の状態にとどまってしまうことになります。

誇大自己の願望は程よく満たされ、程よく挫折を味わうことで、バランスのとれた身の丈サイズへと変化していくことが叶うのです。
このように自分の中で生まれた力を調整していくことで、セルフコントロールの力も養っていきます。


父親は
「守る」ことによって不安・ストレスから身を守るセルフケアの力を、
「立ちはだかる」ことによって自分の欲望を調整するセルフコントロールの力を、
子どもに与えていくのです。

父親への同一化

母親を通して不動の安全基地を心のなかに確立した子どもは徐々に父親と同一化していきます。自分の行動や思考までも父親のものになぞらえるようになるのです。

これは父親を行動モデルとして社会適応を学ぶ手段として行うものです。そのため男の子に限らず女の子であっても異性である父親への同一化が起こります。

このとき父親には頼もしく知恵と力を持った尊敬できる者としてのイメージが必要になります。社会で生きる目標としての父親像があってはじめて、子どもはそこに同一化を起こし、社会で生きる術を身につけていくのです。

もちろん父親も生身の人間ですので、いついかなるときも尊敬に値する振る舞いをしているかというと……そうでもないのが現実かと思います。けれど、それで良いのです。あまりに偉大過ぎる父親というのはかえって子どもの成長の障壁になってしまうこともあります。

また、そもそも父親がもう一面である「畏怖の対象」でもあると、子どもは同一化を起こしながらも一定の距離感を保つもの。そうであれば子どもは程よく距離を持ちながら自分という個を活かした自分サイズの自立の形を目指していくことが出来るようになります。またその成長に合わせ、万能であった目標としての父親像も次第に現実サイズへと変化していくことでしょう。

アイデンティティの確立

男の子はその成長過程においてそのまま父親に同一化して男性としてのアイデンティティを獲得していきます。

一方、女の子は女性としてのアイデンティティを母親を見本とすることで獲得していこうとするため、一旦父親への同一化は収まっていきます。自我を発達させ女性としてのアイデンティティを確立する思春期以降、一人の女性として社会に出ていこうとするときに、改めて父親から社会で生きる力を獲得することになりますが、それまでは少し距離があるのが通常です。

ですが時に父親に対する過度な同一化が女の子に起こってしまうことがあります。

過度な同一化が引き起こすもの

女の子が父親に過度に同一化すると、いずれ女性としての生き方に困難を覚えるようになっていきます。

父親に過度に同一化するのは、裏を返せば母親を目標としての存在と認められていないから。母親への失望があるのです。

このとき女の子は母親から女性としてのアイデンティティの育て方を学ぶことができず、その一方で男性的なエネルギーを身体に蓄えていくことになります。

その力は社会で成功するための原動力になるので、人から一目置かれるような地位に駆け上ることもできるでしょう。けれど華やかな外の顔に対して、内側が寂しいものになりがちです。

それは女性としてのアイデンティティが育ち切っていないため、特にパートナーシップにおいて女性の役割を求められるようになると、どのような振る舞いをすればよいかが分からず抵抗を覚えるからです。男性的に思考で捉えようともし、対応できないことに屈辱を覚えることもあります。

その一方で女性としての肉体が持つ女性性は、抑え込まれれば抑え込まれるほどに衝動的に爆発することもあります。そのため性的に奔放になり、自分の身体を自ら損なうといった方向に進んでしまうことも起こっていきます。

現実の父親から目標となる父親像が描けないときには

母親を目標の姿として見れないように、父親に対しても尊敬する気持ちが欠如すると同一化することができません。

その場合、男の子にとっては男性としてのアイデンティティを築き上げることができず、長じて性的不能となることもあります。また男性としての社会適応に支障が出るので、ひきこもりになる可能性もあります。

女の子の場合には、否定的な父親像を代償するものとして過度な理想像を築き上げることもあります。

理想的な父親のイメージに支配された女性は、恋愛においてそのイメージに合致する一端を見るだけで盲目になりがちです。ですが関係が深くなり、理想に合わない現実を見るようになると相手に失望して、パートナーシップの崩壊という結末を迎えてしまいます。

そしてそうなればなるほど、理想に固執するようになり、その理想にあう男性に犠牲的なまでに献身するケースもあります。

父親の存在が作り出す三者関係

いままで見てきたように父親にはその二つの役割によって子どもに影響を与えますが、その存在そのものが生み出すものがあります。

それが母と子に父親を加えた三者関係です。

家庭の中で父親の存在そのものが欠如すると、母と子の二者関係しか存在しないことになります。(兄弟姉妹間は一旦除きます)

二者間しか経験のない人は当然のことながら複数の人間がいる場での振る舞いに支障が起こります。複数の人間がいる場で自分を出す、ということができなくなるのです。自己主張ができないことはその場における自分の存在を確立できないことにつながり、その場にいることの不快感や息苦しさを感じます。

また一方で、複数との人間関係が作れないからこそ、一対一の関係性に対しての執着も強くなり、それがために一対一であっても人間関係をうまく築いていくことができません

本来子どもは父親にも母親にも愛されることで、異質な両極に対してどっちつかずのバランス感覚を内側に育てていきます。一方だけに偏らないバランスの良さは目の前で起こるさまざまな場面での現実的な判断に役立ちます。健全な成長を遂げることができるようになるのです。

父親の存在感の低下が生み出すもの

かつて父親は一家の長として君臨していました。家父長制が明確に示されていたとき、父親は誰よりも権力を持っていた存在でした。

本来、その権力と背中合わせに責任と義務を果たすことが求められます。それは父親が「畏怖の対象」でもあり「庇護者」であることと同じです。

それが同時に果たされるからこそ、そこに正義と公正とは何たるかが示され、尊敬するべき存在とみなされるようになるのです。

けれど時にその権力が横暴とみなされる域まで達しました。それは戦中、戦後を生き抜くためには必要だったのかもしれません。

ただ、その反動かのように高度成長の波に乗ると父親は徐々に家庭から締め出され、朝出て夜に戻ってきて寝るだけの存在へとなっていきました。

父親が不在となると、自然に母と子の距離は近くなります。ただでさえ生物的に密着しがちな母子は、父親の抑止力がない中で関係性を強め、子どもはより母親の影響を強く受け取るようになります。それによって引き起こされていくのが母と子の関係性から生じてくる、子どもだった大人が抱える生きづらさです。


現代人が抱える問題の多くは母子関係に端を発していることが多い。
けれどだからと言って父親に何の責任もないわけではありません。

父親には父親として為すべき役割があります。

ここ最近は男性の家庭への回帰の流れも生まれているようです。共働き故の家事への参入、イクメンパパに代表される育児への参加。父親が存在感を取り戻すのは良いことです。けれど母性の補填でしかなっていないのであれば、それはいずれ問題を引き起こすかもしれません。

父性が子どもに与えるものは社会で生きていくうえで大切な物なのです。
社会生活を営むのが人間であるからこそ、父親が父親として父性を発揮する家庭が増えますように。

私はそう願っています。

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