性の多様性を知る

2018年7月、お茶の水女子大学にてトランスジェンダーの入学を認めるとの方針が打ち出されました。男性の身体を持ちながらも女性の心を持つ方に、女子大学が門を開いたのですね。これから他の女子大学でも検討が進むとのこと。

これはセクシュアルマイノリティに対する理解がある程度進んできたことを表しているのだと思います。LGBTという単語が市民権を持ち始め、それによって人々の意識に少しばかりの変化が起きたのです。

けれど、おそらくは「ある程度」。

そもそもLGBTという単語も、LGBとTでは、同じくセクシュアリティに関わることだけれども根本的な違いがあります。

今一度セクシュアリティについて学び直してみました。

セクシュアリティの分類

まず、冒頭に上がっているトランスジェンダー(LGBTのTに当たります)ですが、既に書いたように「男性の身体を持ちながらも女性の心」であったり、その逆であったり、身体の性心の性が不一致を起こしている方を指します。ここでいう心の性とは「性自認」という言葉で表したりもします。字のごとく、自分の性を自分でどのように認めるか

何の疑いもなく、男性の身体を持っている自分は男、女性の身体を持っているから私は女、と認識している方はトランスジェンダーに対して、シスジェンダーと呼ぶそうです。

一方、LGBが示すのは「好きになる性」。性的指向とも言います。
レズビアンゲイバイセクシュアル

ヒトという動物として子どもを作るには、オスとメス、つまりは異性であることが必要で、女性が女性を好き(レズビアン)、男性が男性を好き(ゲイ)という同性愛は、それに反していると見なされます。バイセクシュアル(男性も女性も好き)は異性愛の側面を持ちつつ同性愛でもあります。

Tというのは人ひとり単体で起こること、LGBは他者がいてのことを表しているともいえるわけですが、どちらも生物学的には「フツウ」ではない、と見なされるのですね。だから少数者を表すマイノリティという言葉をつけて、セクシュアルマイノリティと言われます。

LGBTとはセクシュアルマイノリティを代表する言葉。けれど、それで全てを表しているわけでもないのです。

産まれた後に性を選ぶ

他のセクシュアルマイノリティに目を向ける前にまず、トランスジェンダーに突きつけられる選択について考えていきましょう。その選択とは「身体と心の不一致をどうするか?」ということですね。

不一致、と言ってもその程度はそれぞれなんだそうです。
「スカートを身につけたくない」とか、反対に「スカートがいい、リボンやフリルがいい」など、見た目の表現さえ自分の望む形に近づけられたらそれでいい、という方もいれば、身体に対する違和感が強く、見るだけで吐き気をもよおすという方もいらっしゃるそうです。

身体に違和感が強ければ、身体を心に適合させる手術も選択肢に上がります。いわゆる性転換手術ですね。

実際に手術をされて身体を適合させるに至った方を、トランスジェンダーの中でも特にトランスセクシュアルと呼ぶそうです。

日本でも戸籍に記載された性を変えることが出来るようになりましたが、そのための要件のひとつがこの手術。自分の心の性に合わせて社会の仕組みの中で生きていくには、この大きなハードルを超えないといけないのです。けれど身体を転換させるには、身体にメスを入れるのはもちろん、ホルモン剤投与を続けなくてはならないといった不便、それに伴う副作用というリスクもあります。

性を選ぶ、というのはとても大きな決断です。

その決断が、また別の形で必要になることもあります。それがインターセクシュアルと呼ばれる方です。

男か女かしかない、というのは本当?

ヒトを身体の性で分類するときに、そこには男か女しかない、という認識は多くの人が持っているのではないでしょうか。心の性での不一致はあれど、身体の作りとしては男か女かしかない。だから日頃よく見るアンケートの性別欄や、スポーツにおいて同競技が男子/女子と分けられます。

けれど実は、その認識すら間違っているのです。

そもそも性別を決めるものとは何でしょうか。
それは性染色体(いわゆるXX,XYであらわされるもの)、性腺(卵巣,精巣)、内性器・外性器(子宮や前立腺など)となります。これらすべてが女性で揃えば女性、男性で揃えば男性と見なし、それが当たり前、と思っています。

実はヒトという生き物は、ベースはメスなのだそうです。
そこから分化によってオスが生まれていきます。

それがどういうメカニズムによるものか、完全には解明されていないそうですが、男性ホルモンの影響という考えは柱として存在します。そのホルモンが何らかの影響で阻害されると、途中までオスとして成長してきたものの、それからはオスにはならずメスのまま、ということが起こってしまうのですね。

トランスジェンダーの方というのは、最終的に脳に対して男性ホルモンが異常作用し、身体はメスとして成長してきたのに脳の認識は男性、またはその逆というように考えられるのでしょう。

けれど、その影響度合いがどこまで出ているのか、心の性はどうなっているのか、というのはある程度成長してみないことには分かりません。あくまで「自認」、自分が認める性別ですから。

インターセクシュアルの方は、産まれたそのときに性を選ぶことを求められる場合があるそうです。
もちろんそのときに選ぶのは親。そしてその親に情報を提供するのが医師。

親はもちろん、医師もどうするべきか、かなり悩むことでしょう。身体そのものをどちらかに偏らせる(完全にどちらかにすることが難しいケースが多い)ことは手術で出来ても、心がどうなるかはそのときには分かりません。子どもの将来を見据えながら、究極の選択がなされます。

それが難しいからこそ、ある程度成長するまで身体はそのままにしておく、という手段が取られるケースもあるそうです。でもその場合、小学生くらいの子どもに決断を迫る場面もあるでしょう。それを選ばなくてはならない、そのときの気持ちは当事者以外には到底計り知れません。

だからこそ、当事者でない者はせめて、そんなセクシュアルマイノリティがいる、ということを知らなくてはいけないと、私は思うのです。

人を好きになるのは当たり前?

好きになる性」、性的指向にも目を向けていきましょう。

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル。LGBTという言葉が世に出るよりも前から知られている言葉ですよね。同性愛者とひとくくりにされています。対して異性愛はヘテロセクシュアルと呼びます。男性と女性が交わることによって子が成せる。これが生き物としての基本。だからそれに反する関係性を忌み嫌う方がいらっしゃるのも理解はしますが、個人的には好きになってしまったものは仕方がないじゃないか、と思っています。

ちなみに同性異性というのにも全く頓着せず、好きになる相手に性別という概念を持ちこまない方もいらっしゃいます。パンセクシュアルと呼ばれる方ですね。男性だから/女性だから、好きになった、という気持ちではなく、ただ好きになった、そしてベッドに一緒に入って初めて性別に気付いた、という感じなのだそうです。

好きになる性にもいろんな区別がありますね。そしてここに加えてもう二つご紹介します。

この、ある人が「好き」という気持ち。これは当たり前のものだと思いますか? 思春期が来れば当然誰かを好きになって、恋愛感情の目覚めに心乱されるときが訪れる……。そう思いますか?

実は恋愛感情を持たない、という方もいらっしゃいます。アセクシュアルと呼ばれます。
また、恋愛感情は持つけれども性的欲求は感じない、という方も。こちらはノンセクシュアル

男と女が惹かれ合って、身体の関係を持って、子どもを持つ、というのを「フツウ」と考えれば、その「フツウ」に外れて同性を好きになる人もいます。
時期が来れば自然と恋愛感情を持つのが「フツウ」と考えれば、その「フツウ」に外れて恋愛感情を持たない人もいます。

そんなセクシュアルマイノリティの方もいらっしゃるのですよね。LGBTという言葉だけでは少しも全体が表されていないのです。けれどこの言葉をきっかけに私が色んなセクシュアリティを知ったように、徐々にその多様性が世の中に伝わるといいなと感じます。

それこそ今は「ダイバーシティ(diversity)」、多様性の時代なのですから。

フツウでない私には価値がない?

ここからは心理セラピストとして、心の側面に光を当てて考えていきたいと思います。

セクシュアルマイノリティの方は、マイノリティであるが故に、自己否定感を抱えていることが多いそうです。

「フツウ」でないことが周囲から受け入れられずに迷惑そうに見られたり、いじめがあったり、蔑まされたりといった経験を積めば、「フツウでない自分がおかしい」「自分がこんなだからいけない」と思ってしまうのです。それは当たり前ともいえるでしょう。

それではなぜ、周囲は受け入れることができないのでしょうか。

まず何より親が受け入れられないということが起こります。
「フツウ」で産まれるはずなのに「フツウ」ではなかった、と知れば、そう簡単に「はい、そうですか」と言えない気持ちも分かります。

けれど「フツウ」であれば安心、「フツウ」でないと社会から受け入れてもらえない、と思う気持ちは、子どもを心配しての気持ちではなく、親自身が社会に受け入れてもらえないと感じているからなのです。

自分自身が社会に、自分を取り巻く世界に、不安を抱いているから、「フツウ」になることでやり過ごそうとするのです。

その不安が子どもの存在によって表に出てきただけと言えます。
子どものセクシュアリティが問題ではないのです。

親の問題、親の責任

例えばその不安の正体は、祖父母をがっかりさせる、親戚が陰口を叩く、近所の人間に指をさされる、といったもの。

それによって自分がどう傷つくのか、は親の問題です。
そして、同じようにそれによって子どもがどう傷つくのかは、最終的には子どもの問題になります。

けれどどう対処すべきかを教えていくのは親の責任です。

親が自分の不安と向き合っていく姿は、きっと子どもに伝わります。そして自分と向き合える親は、子どもとも向き合えます。

向き合ってもらった子どもは安心を覚えます。
それはきっと子どもが何歳になったとしても。


自己否定感を癒すカギは、その安心感

自分から目をそらすことなく向き合ってくれる存在があることは、人に安心感を与えます。


「フツウ」でない、ということは苦労を伴うものだと思います。「フツウ」でないものは未知だから、未知を嫌う人間はどう対処してよいか分からず目をそらしてしまいます。身近な人間が受け入れられないのは、この理由が大きいかもしれません。

また「フツウ」は標準となります。世の中のいろいろなことは標準をもとに決められています。標準に合わないから対処に困る、ということも起こり得るでしょう。

けれど、根本は「命」なのです。

どんな性質を持っていようと、ありのままをまず見つめる。

それを第一優先で出来ないのだとしたら、そこにあるのは何なのか?
そこには心理セラピーで出来ることがあると私は思います。

そしてまた安心感を手に入れられなかったがために自己否定感が拭えない方にももちろん、心理セラピーは役に立てます。マイノリティだからと自分を貶めて生きることはないのです。

セクシュアリティに目を向ける

特に日本人は「性」に対して口に出さないと言われます。プライベートの最たるものだからこそ、触れない。
けれど「性」は「生」なのです。性に向き合うことは、生きることに向き合うこと。

それは「フツウ」の人も同じことなのです。
どんなにマイノリティであろうと、「フツウ」でなかろうと、人は人。そこにある命。

きちんと目を向け、自分なりに知ろうとすることは、必ず自分の「生」につながるのではないでしょうか。